いたいの、いたいの



「豪ちゃん、行くでー」
青波がボールを握った右手を高く上げる。
「おう、全力で投げてみい」
ミットを拳でパンと叩いて、豪は腰を落とした。
青波は見よう見まねか、ぎこちないフォームでボールを投げた。それでも、ちゃんと投手のそれだった。
パシンッ
豪のミットにボールが収まる。巧が立てる音より遥かに軽い、弱々しい音だ。
けれど青波は嬉しそうに上気した頬で笑った。
「やった、入った! 兄ちゃん、見た?」
青波が巧を振り返る。神社の境内は落ち葉が隙間なく散り敷いて、青波が動くたびにかさかさと乾いた音を立てた。
「ああ、見てた」
「いいぞ、青波。もう一回じゃ」
豪がボールを青波に返す。器用に受け取って、青波は感触を確かめるようにボールを握った。
巧はいつも豪がしているように、木にもたれて二人を見ていた。グローブを脇の下に挟んで、手の中でボールを転がす。
時々枯葉がひらりひらりと目の前をよぎった。

シュッ
パシン

シュッ
パシン

単調な音の繰り返し。巧はほんのちょっと首を伸ばして、空を見た。
今日はやけに暗くなるのが早い。そう思ったら、いつのまにか厚い雲が空を覆っていた。
――雨、降るかな。
それなら早めに青波をつれて帰らなきゃならない。
そう思って視線を戻した時、あらぬ方向に飛ぶボールが見えた。
豪が伸び上がった。目はボールをとらえたまま、後ろに下がる。
「豪!」
危ない、と言う暇もなく、豪の踵が木の根に引っかかる。
「う、わ!」
「豪!」
「豪ちゃん!」
豪の大きな身体が一瞬ふわりと浮いて、
どすん、
と落ちた。

「いてて…」
「豪ちゃん!」
青波が慌てて駆け寄る。巧も近くまで行って大丈夫かと声をかけた。
「ああ、大丈夫……」
「豪ちゃん、血ぃ出てんで!」
青波が青くなる。豪の右手の小指の付け根がすりむけて、土に汚れた傷口から血がにじんでいた。
「こんなのかすり傷じゃ。なめときゃ治る」
豪は笑って、傷を乾かすように右手を振った。
「医者の息子の言うせりふかよ」
呆れたように巧みが言う。
「そう言うけどな、巧。そうバカにしたもんじゃねえんじゃぞ。唾液には殺菌作用があってな……」
「はいはい、わかったよ」
「豪ちゃん、ごめんなぁ」
「平気じゃ。気にせんでええ」
豪は立ち上がり、拾い上げたボールを青波に手渡した。
「けど、豪。洗うくらいした方がいいぞ」
「そうじゃな、これじゃあボールにも血がついてしまうもんな」
豪はミットを外すと、手水所で手を洗った。冷たい水がしみるのか、顔をしかめるのを巧は見た。
「青波」
巧は青波を呼んだ。
「そろそろ暗くなる。今日は帰るぞ」
青波はほんの少し落胆の色を見せたが、空を見上げると、承知したように頷いた。
「わかった」
「なんじゃ。もうお終いか?」
濡れた両手の水を切りながら豪が戻って来る。血はまだ止まっていないようだった。
ちゃんと手当てしろよな。そう言おうとして、巧は開きかけた口を閉じた。言わなくてもわかってるだろう。怪我をした手で相手ができるような球は、巧は投げない。それを一番わかっているのは、豪だ。
「じゃあ、またな」
短くそう言って、巧は背を向けた。
「豪ちゃん、バイバイ」
青波が手を振って、巧の後を追う。巧はもう走り出していた。
兄ちゃん待って、とは青波は言わない。ただ黙って兄の後について走る。

随分たくましゅうなった。青波の小さな後姿に豪はそう思う。頼もしいような、少し寂しいような気持ち。
豪は右手を見た。ぼろぼろになった皮膚の裂け目から赤い肉がのぞき、うっすらと血がにじんでいた。
大した怪我じゃない。すぐに治る。
豪はミットを拾い上げ、とんとんと軽く爪先で地面を蹴り、走り出した。
あたりはもう薄暗くなっていた。


続く