雨上がり特有の透き通った空気が秋の日差しにきらきらと光る。
豪は目を細めて、ひんやりしたそれを胸いっぱいに吸い込んだ。
「こら永倉、手を止めるな」
オトムライが声を張り上げた。肩を竦めて、豪は手にしたスポンジをぬかるんだグラウンドに押し当てた。
泥水を吸って重くなったスポンジを、バケツの上で、絞る。
「豪」
顔を上げると巧が泥だらけのスポンジを持って立っていた。豪が場所を空けると、バケツに水を絞った。
「大丈夫か」
「え?」
巧は目だけ上げて、睨むような表情をした。
「手だよ、右手。昨日の、大丈夫だったかよ」
「ああ」
豪は手を広げて見せた。
「もうふさがった。大したことないて言うたじゃろ」
「ならいいけど」
巧はそう言ってふいと背を向け、また作業に戻った。
豪は右手を見る。まだひきつるような感じはするが、薄いかさぶたができている。じきに治るだろう。ボールだって、投げられる。


「よし、じゃあグラウンド整備が終わったら、今日は紅白試合を行う。この前分けたチームで行くぞ」
オトムライの声に、はいっ、と声が上がる。そわそわと落ち着かない空気が一年生の間に流れる。
「なあ原田、見てみい。あいつら緊張しとるぞ」
沢口が巧の側へ来てひそひそと言った。やけに嬉しそうだ。
「おまえだって去年はあんなだったぜ」
「おう、そうじゃそうじゃ」
巧の言葉尻に、東谷が乗っかる。沢口が頬を膨らませた。
「ヒガシまでそんなこと言うんか」
「おれだって先輩と試合すんのは緊張したもんな。落ち着いてたのは原田と豪と、あと吉ぐらいじゃろ」
「あれを落ち着いてたと言うならな」
素っ気無く巧は言った。緊張していなかったのは確かだろうが、吉貞と『落ち着く』という言葉は結びつかない。
巧はちらっと豪の方を見た。左手にバケツをぶら下げている。
さっき見た豪の傷は、確かに深くはなかった。だが昨日の今日だ。少しの衝撃でまた開いてしまうだろう。
だが、豪以外のキャッチャーに投げることなんてできない。


「よし、じゃあ始めるぞ」
アンパイアの位置――豪の後ろで、オトムライが片手を上げた。
「原田、七割だ」
オトムライに指示に、巧は頷いた。
これは試合の形を取った練習だ。相手からただ三振を取ればいいんじゃない。打つ練習、捕る練習も兼ねている。それくらいは、巧もわかっていた。
それに、今日はそれくらいでちょうどいい。豪の手の傷が、また頭をよぎった。
バッターボックスに打者が入る。豪がミットを構えた。
真ん中。頷く。
七割の力で――
投げた。
ビュッとバットが空を切って、豪のミットが快い音を立てた。
「ストライク!」
オトムライの声。豪が立ち上がって、返球する。
グローブに、確かな感触。豪を見た。よし、大丈夫だな。巧はもう一球、今度は少し力をこめて、投げた。


五回表。
ワンアウト、ランナーはニ塁。
一球目は見送り。このままツーアウトをもらおうと思った。
だが、二球目。
バットは乾いた音を立ててボールを高く運んだ。
「ライト、ボールから目を離すな!」
オトムライが鋭い声で言った。
ボールはすっぽりとグローブに収まった。
「すぐに送れ! バックホームだ、早く!」
ランナーは三塁を蹴っていた。
豪がマスクを外して前へ出た。ランナーを気にしながら、返球を待つ。
白球が飛んだ。豪が捕らえる。
そして、滑り込んできたランナーと、接触――いや、衝突した。

「大丈夫か」
重なり合うようにしてうずくまる二人にオトムライが声をかけた。
「はい、なんとか……」
立ち上がった豪を見て、オトムライが眉を上げた。
「永倉、血が出てるじゃないか。どこか怪我でもしたか」
「え?」
見ると、昨日の傷からまた出血していた。
「あ、これは」
「豪」
巧の声に、豪は振り返った。
「手」
「ああ、ちいと開いただけじゃ。なんてことない。かすり傷じゃって言ったろ、心配すんな」
「そうか」
巧は無表情のまま、豪の手を取った。そして――
「たっ巧!? おまえ何を…!」
豪が声をひっくり返らせた。オトムライも驚いたように目を見開いた。
「原田!?」
「何って、なめときゃ治るんだろ」
豪の手から顔を上げて、巧は言った。くちびるに、かすかに血がついていた。
「だ、だからってほんとになめるやつがおるか…! き、汚いとか思わんか」
「べつに」
さらりと言って、巧は泥だらけのボールを拾った。
「おれ、こいつだって平気だぜ。まあ、やらないけど」
「巧、おまえなあ……」
言葉をなくして豪は頭を抱えた。
遠巻きに、吉貞や東谷がわあわあ言っているのが見えた。
巧はそんなことはお構いなしに、聞いた。
「豪、まだできるか」
豪は自分の手の傷を見て、それから巧の方を見て笑った。
「もちろんじゃ。今のショックで痛みも吹っ飛んでしもうた」
「ショックとはなんだよ」
にやりと笑って、巧は手の中でボールを回した。
「じゃあ、そういうことで、いいですよね、先生」
「え、ああ……」
オトムライははっとしたように頷いた。
「永倉、本当に大丈夫か」
「おれは平気です」
「そ、そうか。ならいい」
まだ動揺しているらしいオトムライを見て、巧と豪はそっと目を合わせて笑った。

とんだびっくり箱じゃ、おまえは。何が飛び出すかわからん。
豪はミットを構えながらくすぐったいような笑いを堪えた。





















初バテリ。恥ずかしい話ですいません…。
旅先からメトロにネタメールを送った記憶があります。
「なめときゃ治る」というセリフが好きらしい。
なんだか大昔のことを思い出します…(遠い目)
しかし巧さんは天然なのか魔性なのか…
フィジカルは豪巧でもメンタルは巧豪だからね。