あめあがり



久しぶりに母の夢をみた。
目が覚めてもしばらくぼんやりとしていた。
胸の奥にもやもやと残った夢の余韻を捕まえようと思ったけど、手を伸ばすとすぐにそれは霧のように散ってしまった。
懐かしい夢だった。
母のことを思い出すのは本当に久しぶりだ。
昨日水谷とあんな話をしたからだろうか。
自分も案外単純だな。ベッドの中でフフッと笑った。
カーテンを開けると外は雨だった。梅雨特有の低い鉛色の空から、細い糸のような雨が音もなく落ちていた。
これくらいの雨なら朝練はあるだろうな。なんと言っても、夏大まで間がない。
オレは再びカーテンを閉めると、まだ寝てる弟を起こさないように部屋を出た。
キッチンには明かりが灯っていた。
姉がダイニングテーブルの上にノートを広げてしかめっ面をしている。どうやら数学と格闘しているようだ。理数系に弱いのは家系らしい。
「おはよ」
「ああ、勇人。もうそんな時間?」
姉は時計を見て立ち上がった。
「コーヒーでいい?」
「うん、自分でやるよ」
オレはコーヒーメーカーから自分のカップにコーヒーを注いだ。
姉は毎朝必ず四人分のコーヒーを沸かす。おかげで一家は大のコーヒー党だ。まだ幼い弟は、ミルクと砂糖をたっぷり入れたのが好物なんだそうだ。
それからオレは食パンをトースターに放り込む。
熱したフライパンに卵の落ちるジュワッという音が耳に心地よい。
姉は毎朝こうやって、オレの起きるのをキッチンで待っている。
時々寝坊することもあるけれど、母さんがいなくなってからずっと、母さんがオレたちにしてくれていたことを、代わりにやってくれていた。
弟なんかにとっては、姉は本当に母代わりの存在なのだろうなと思う。
会話が途切れると、雨の音が耳についた。
「雨だね」
「そうね」
姉はオレの焼いたトーストをかじった。
「でも明日には晴れるって言ってたから、安心して汚してきな」
ユニフォームのことだった。雨の日の練習は、当たり前だけど晴れた日よりもずっと汚れる。泥だらけになる。
「うん、自分で洗うから」
「なに言ってんの、いつもそうじゃない」
姉はちょっと驚いたように言って、コーヒーを飲んだ。
普段の洗濯は姉がやっている。家で唯一の女手であることを、たぶん家族の誰よりも意識しているのだろうと思う。家事全般を、姉はこなした。だからこそ、オレも弟も、そしておそらく父も、自分でできることはできるだけ手伝おうと心がけている。
けれど、ただひとつ姉がやろうとしなかったことがある。
それが、オレのユニフォームの洗濯だった。
落ちにくい汗や泥の汚れ。時に血のしみこんだそれを洗うのは結構骨が折れる。毎日のことなら尚更だ。
だからもし姉が洗ってくれると言ってもオレは断ったと思う。汚すことを懸念して、練習に集中できなくなりそうだから。
自分で洗うとわかっているから、オレは毎日遠慮なく汚すことができる。そりゃ、洗濯が面倒で、練習帰り、気が重くなることもある。それでも、姉に余計な仕事を増やすよりはずっと気が楽だった。
もしかして姉は、そんなオレの性格を読んで、そう決めたのかもしれない。
姉の方を見ると、ちょうど大きな欠伸をしているところだった。
「姉ちゃん、オレに付き合ってこんな早く起きることないよ。メシだってひとりで食ってけるしさ」
「は?」
姉は目を擦りながら言った。
「あんたねえ、受験生の貴重な勉強時間を奪うつもり? この時間はかどるのよ、静かで。家事をするにもちょうどいいし」
「でも」
「それにあんたが寝てて知らないだけで、私はずっとこれくらいの時間に起きてたんだよ。今更変な気回すんじゃないの」
姉は空になった食器を手に席を立った。水音が、雨の音にまじる。
オレはふと、母がいた頃の、雨降りの朝を思い出した。
ああ、なんとなく感傷的になってる。
「勇人」
姉が振り返った。
「のんびりしてていいの? 朝練あるんでしょ。遅れても知らないよ」
姉に送り出されて、オレは学校へ向かった。



昼が近くなるにつれ、雨脚はどんどん強くなった。
オレは四時間目のリーダーの、退屈な訳を聞きながら窓の外を眺めた。いつもの風景が、全て灰色にけぶって見えた。
本当に明日にはやむのだろうかと心配になるほど、勢いのある雨だった。
昼休みの終わり頃、花井から部活中止の連絡があった。
バイト中のモモカンからメールでお達しがあったらしい。警報が出たから、早く帰れとも言っていた。
律儀に全員のクラスを回っている花井は、やっぱりキャプテンに向いてると改めて思う。たぶんみんなもそう思ってるだろう。本人は不本意そうな顔をしているが、その実案外満更でもないんだろうともオレは思っている。なんだかんだ言って面倒見がいいんだ。



傘を差していても、学生服のズボンは歩いている間に膝の上までびっしょり濡れた。たっぷりと水を吸ったズボンは重く、じっとりと脚を冷やした。
夕方早い時間に家に帰るのも久し振りだ。
「ただいま」
玄関を開けると、姉のけたたましい声が聞こえた。
「もう! なんであんたは長靴履いてったくせに、こんなんなって帰ってくるのよ!」
話の内容から、弟を叱っているのだとわかった。
「だって」
「だってじゃない! どうせわざと水溜りン中入ったりしたんでしょ!」
図星を指されて弟が静かになる。
「ただいま」
リビングに入って、もう一度言った。やはり二人とも気付いてなかったらしく、意外そうな顔で振り返った。
「早いじゃない」
「雨で部活なくなったんだ」
「ああ、そう。今日買い物してないから夕飯あるもので作るけどいい?」
「ん、任せる」
オレと姉がそんな会話をしている好きに、弟は裸足の足をぺたぺた鳴らしてリビングを逃げ出した。
「あっ、こら! もう、勇人からも言ってやってよ。最近私の言うこと聞かないんだから」
「水溜りにつっこむなって?」
「そう。わざと靴の中に水を入れてるみたい。ひっくり返したら水がいっぱい出てきたもん。ありえない!」
姉はブツブツ言いながら、弟が使ったらしい汚れたタオルを丸めて風呂場へ向かった。
オレは玄関に揃えられた弟の青い長靴を見た。俺が弟ぐらいの年のときに使っていたものだ。おさがりのそれを弟は文句も言わずに使っていた。
急に、当時の自分がパッと蘇った。
そうだ、オレにも覚えがある。長靴を履いたままわざと深そうな水溜りや溝の中を歩いた。
ざぶざぶと自分の足が水を割る感触。
そのうち中に水が入って、靴の底にひたひたとたまる。
もちろんその頃には靴下はびしょ濡れ。今なら不快に思うそんなことが、なぜだか胸をわくわくさせたものだった。
濡れた足と長靴の中敷とが、歩く度にがぽがぽと変な音を立てた。その音と、空気を押し出す感覚も、子供のオレには楽しかった。

――勇人、勇ちゃん。どうしてこんなことするの。濡れたら風邪を引くでしょう? ほら、上がる前に靴下脱いで。今母さんタオル持ってくるから……

おぼろげな母の記憶。
ああ、そういえばオレもよく叱られたっけ。
母親とのそんな思い出がある分、オレのほうが幸せなのかもしれない。弟は、おそらく母の顔もはっきりとは覚えていないだろう。

部屋に戻ると、弟は膨れっ面でマンガを読んでいた。オレのほうを見ようともしない。
「お前、長靴ン中びしょびしょにしたんだって?」
弟は顔を上げない。怒られると思ってるのだろう。
「怒りゃしないよ。オレもそれ、よくやった」
そう言うと、やっと弟はこちらを見た。
「ほんと?」
「ああ。あの長靴、何度も水浸しにしたよ」
それでも今もカビもせず使えるのは、母がその都度きちんと干して手入れしてくれたからだ。
「だからオレは怒らないけど、でもな」
オレは制服をハンガーに掛けながら言った。濡れたズボンは明日までに乾くだろうか。
「お前が濡らしたり汚したりしたものは、姉ちゃんが洗うんだってことは、忘れんなよ。受験生で勉強もあるのにオレたちの面倒見てくれてんだから、感謝しないとな」
「うん…」
弟は神妙な顔でうなずいた。きっとオレが言ったようなこと、充分理解してるんだろう、ただちょっと、羽目を外しすぎただけだ。
「じゃあ後でちゃんとごめんとありがとう言っとけ。じゃなきゃ夕飯なに食わされるかわかんないぞ。……おっと、今のは姉ちゃんには内緒だぞ」
指を立ててそう言うと、弟は笑った。

雨は弱くなったようだ。姉の言うとおり、明日は晴れるだろう。
オレはカバンから汚れたユニフォームを取り出して、風呂場へ向かった。





















もっそい捏造してすいません!!!
栄口くんと家族の話。
お父さんの影が薄いけど。
でも、あの栄口くんのおうちだから、
兄弟みんないい子たちなんだろうなあ、
ってずっと思ってます。思い込んでます。