in the not-too-distant future



「なーなー花井ー。お前アタマいーんだって?」
田島が突然そんなことを言い出したのは中間テストも目前の頃。
「何だよ、それ」
「阿部に聞いた。こないだエーゴ当てられたとき、スゲーすらすら答えてたって」
「すらすらは答えてねえよ」
人並みにはできるかもしれないが、言うほど得意ってわけじゃない。あれはたまたま予習してた範囲だったし。
「……で? なんとなくオレは話が読めてきたけど……」
「おおっ、さすが! お前実はエスパーなんじゃねーの?」
「いや、そんな大したもんじゃないから……」
そして田島は予想通り、テスト勉強を教えてくれと言った。
「だってさー、高校って成績悪いと進級できないんだろー? 留年なんかしたらオレ、親父とお袋と上の兄貴にぶっ飛ばされるもん」
なかなか過激な家族愛だ。
「なー頼むよ花井。なっ! 俺のとっときのAV貸してやるから!」
「え、AVはいらねえよ」
「なんで? スゲーよ?」
「いや、うち妹いるし……」
興味がないわけじゃないけど、見つかったら大事だ。
「フーン、まあいいや。じゃあ今日ウチでやろうぜ!」
「はっ!? 何を?」
思わず声が裏返った。
「何ってベンキョ」
「あ、ああ……そっちね」
びっくりした。AVの方かと思った。
田島は俺の慌てぶりがおかしかったのかニヤニヤ笑っている。
こいつ、わざとか?
「わぁったよ。行けばいいんだろ」
「やった。じゃあヤクソクな。ゲンミツだぞ!」
「いや、だからその使い方間違ってるから……」
オレは早速、安請け合いを後悔した。

――まあそんなわけで、俺は田島の家に行くことになった。

田島の家は本人曰くチャリで一分。確かに歩いても五分とかからない距離だった。
「野球部のトモダチ。ベンキョー教えてもらうんだ」
田島は母親にそうオレを紹介した。
「花井っす。えーと、あの、お邪魔します」
「まあまあ、どうも。ごめんなさいねーうちの子野球ばっかで全然勉強しなくってホント」
田島のお袋さんは、田島に似た笑顔でそう言って、息子の頭を軽く叩いた。
「いてーな、何すんだよ」
田島は両手で頭を押さえて、学校では見せない顔をした。
「何すんだじゃないだろ。ちゃんと教えてもらうんだよ。花井くんの迷惑にならないようにね」
声がでかいのは親譲りか。怒涛のような迫力にオレはただ圧倒された。

「オレの部屋二階」
田島の後について階段を上った。
部屋に入ると微かに煙草の臭いがした。
「田島、お前吸ってんの?」
まさかと思いつつ尋ねると、田島はそんなわけないじゃんと逆に驚いた顔をした。
「これ以上背ぇ伸びなくなってどうすんの。この部屋さぁ、ちょっと前まですぐ上の兄貴と一緒に使ってたんだ。だからちっと臭うけど、オレは吸ってねぇよ」
あっけらかんと言う。
「そ、うだよな。ごめん」
「何謝ってんの?」
田島はそう言ったけど、そして本当に気にしてないのかもしれないけど、それでもアイツにとって身長がコンプレックスじゃないわけない。
そういうところを見るたびに、田島はなんて強いんだろうと思う。
「……カッコイイな、お前」
「えー、何だよ?」
「わかんないならいい」
そう言ってオレは日に焼けた畳の上に腰を下ろした。
「あーでも吸ったことはあんだろ」
「あるよ」
やっぱり田島は悪びれるわけでもなくあっけらかんと答えた。
「昔シニアの奴らと隠れて吸ったけどさ」
そのときのスリルを思い出すように、田島はニヒヒと忍び笑いをした。
「でも別にうまいとも楽しいとも思わなかったな。だからそれきり吸ってねーよ」
そして田島は「オレ机取って来る」と言って部屋を出て行った。
どたどたと階段を下りる音。階下で母親と会話する声が聞こえる。
「でっけー声……」
改めてそう思う。呟いて、小さく笑った。
そしてオレは手持ち無沙汰で、座ったまま部屋をぐるりと見回した。
パイプベッドとシール跡だらけの古い学習机。壁に古い洋楽ロックバンドのポスターが貼ってあった。あいつの趣味じゃない。おそらく田島の兄貴が貼ったものだろう。そしてマンガばかりの本棚の一番上の段には、賞状やトロフィーが並んでいた。
オレは思わず立ち上がって本棚の前に立った。
ブロック大会、関東大会、全国選抜、日本選手権……
ハンパじゃない。ホンモノだ。
そんなチームで、4番を打ってた男なんだ、あいつは。
「おっまったっへ〜。あにしてんの?」
折りたたみの机を抱えて現れた田島は、とてもそんなスゴイヤツには見えないけど。
「いや、これスゲーなと思って」
「ふーん? それよかさ、麦茶しかないんだけど」
それよか、で流された。
つまり田島にはトロフィーも過去の栄冠も大した問題じゃないわけだ。
「……なんでもいいよ」
「そう? 母ちゃーん、なんでもいいってー」
ドアから首だけ突き出して田島が叫んだ。あいよーと応える声。いつもこんな調子なのか?
「よしっ、じゃあやろうぜ!」
 田島が腕まくりをして、俺の向かいに腰を下ろした。
「どっからやんだ?」
パラパラと教科書をめくりながら田島がオレに聞く。
「いや、どっからって……お前、どこがわからないんだよ」
「んー、全部?」
「全……」
絶句する。
「えーと、中学でやったことは覚えてるか? 一応入試受かったんだもんな?」
オレは最後の望みを繋ぐように、恐る恐る尋ねた。でも田島は、
「さあ? どうだろ?」
あっけらかんと言い放つ。
「おっまっえっは〜〜〜」
「だから教えてくれって頼んだんじゃんかぁ!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っあー、もう!」
オレはバサッとノートを机の上に開いた。
「じゃあまずレッスン1から訳ノート作るぞ! 時間ないから、ふざけないで真面目にやれよ!」
「えー」
わっかんねえよー、と文句を言う田島の頭を叩きながらオレは心を鬼にした。
赤点なんか取られて部活停止にでもなったらコトだ。これから夏大も控えてるっていうのに。

しかし、田島の英語力はオレの予想をはるかに上回っていた。(もちろん悪い方に)

ブブブブ……とくぐもった携帯のバイブ。
「ん、オレか」
カバンの中から取り出した携帯の着信は自宅から。
「わ、やべ」
窓の外は顔が映るほど真っ暗になっている。
通話ボタンを押すと、母親がどこにいるのと尋ねた。
「今友達んちに来ててさ、うん、部活はないよ。……いやわかってるって! だーかーらー、一緒に勉強してたんだってば。え…ああ…、うん、うん、すぐ帰るよ」
ピッと終話ボタンを押すと、ディスプレイには『19:12』と表示されていた。
「もう七時過ぎてんじゃん」
「マジでー? どうりで疲れたと思ったぁー」
ぐたーと田島が後ろに倒れる。
「バカ、オレだって疲れたよ!」
田島ときたら何度説明しても過去形と完了形の区別がつかないし、そもそもちっとも単語を覚えていない。
「おっ前、ウェンズデーくらい書けろよ!」と怒鳴りつけたりもした。
それでもまだテスト範囲を完全にカバーするには至らなかった。
「じゃあオレそろそろ帰るけど、それ、続きやっとけよ! 明日チェックするからな!」
「え〜?」
「えーじゃない!」
慌しく片付けをして、空のグラスとカバンを掴むと立ち上がった。
「じゃあな」
「え、何すぐ帰んの?」
田島は驚いたように跳ね起きて、オレの後から部屋を出た。
どたどたと階段を駆け下りて、「母ちゃーん、花井帰るってー」と大声で叫んだ。
「えぇ?」
台所から声がして、続いてお袋さんが飛び出してきた。
「あらやだ、もう帰っちゃうのかい?」
「あ、ハイ。遅くまでスイマセンでした。これ、御馳走様でした」
グラスを渡すとおばさんは、まあそんなのいいのに、と言った。
「それよりご飯食べてってもらおうと思って、おばさん用意しちゃったよ」
「でも親が待ってますから」
「そーお? なんならおばさん電話してあげよっか」
「いえっ、いいですいいです! また今度」
両手を振って辞退すると、田島のお袋さんは残念そうな顔をした。
「悠一郎が友達連れてくるのも久し振りだから。よかったらまた遊びに来てやってね」
「何もねーけどな」
あははと田島が笑った。
「じゃあ悠一郎、あんた送ってってやんな」
「えっ、いいですよ。いいって」
「いいって言ってる」
そうオレを指差した田島はお袋さんにゲンコをくらっていた。
「バカ、お前の勉強のために来てくれたんでしょうが。送っていくのが当たり前だろ!」
「いてっ、わかったよ」
「いや、ほんといいですから。学校まですぐだし……」
「じゃあ学校まで送るよ」
田島はそう言いながらぴょんと玄関に下りて靴を履いた。
「じゃあね、気をつけて。本当に今日はありがとうね。――あ、そうだ。これ持ってって。うちの畑で取れた空豆!」
ビニール袋一杯の薄緑の房はずっしりと重かった。
「え、いいんすか?」
「うんうん、持ってって。うちのおじいちゃんが作ったのよ」
「ありがとうございます」
「おーい、何やってんだよ。行くぞおー」
田島が玄関から呼ぶ。
「あ、じゃあ」
「うん、これからも悠一郎をよろしくね」
お袋さんに送り出されて、オレは田島と並んで歩き出した。
畑や空き地に挟まれた細い道は街灯もなく、暗い。
田島の押す自転車がカラカラと音を立てる。
オレの提げたビニール袋がカサカサと鳴る。
遠くに蛙の鳴く声がして、ふと会話がないことに気付く。
「あの……」
「あのさ!」
田島がいつもと何も変わらない声で言った。
「オレ、今のチームで甲子園行きたい。ゲンミツに行く!」
「は?」
突然何を言い出すのかと、オレは田島の顔を見た。
「だからベンキョーもやるし、昔のことはカンケーない」
「え」
通りに出た。田島の顔がはっきり見える。真っ直ぐオレを見上げる目。
「だろっ?」
にっと笑う。
「お前――」
もしかして、オレが部屋で賞状とか見て、気にしてたからだろうか。
あのとき一言で流したくせに、ちゃんと覚えていたんだろうか。
トロフィーも過去の栄冠も関係ないのは、田島は前しか見てないから?
オレたちと、甲子園に行くことしか……
そんなふうに思ったときには、田島はもう自転車を押してどんどん歩いて行ってしまっていた。
「あー楽しみー。夏大、頑張ろうな!」
そう言って振り返ったのもやっぱり満面の笑顔で。
それは不安や嫉妬やつまらないプライドや、そんな些細なことを吹き飛ばしてしまう力があるように思えた。
「そうだな」
だったらオレも付き合ってやる。
――どこまで?
――どこまでも。
お前が目指すゴールがオレたちと同じなら、オレも一緒に走りたい。
なんて。
ちょっとハイになってる自分に気付いた。うずうずと熱を帯びる身体に夜風が心地好い。
「でもまあ、まずは中間どうにかしろよなあ」
「まっ、それは花井センセー次第ってことで」
「ふざけんなよなあ!」
もう面倒見ねーぞ、と笑った。

「じゃあな! また明日!」
校門の前までくると、田島は軽々と自転車にまたがった。
白いシャツの背中が夜の中にどんどん溶けていって、見えなくなるまでなんとなく見送った。
人気のない校舎に目をやると、ひとつ、ふたつ、明かりのついてる窓があった。
「ああ、星だ」
仰いだ夜空に小さな星がいくつも瞬いて、オレは大きく息を吸い込んだ。
明日も晴れるな。
練習ができないのがもどかしいような暑い日になるだろう。
オレは携帯で時間を確認して、急ぎ足で家路についた。












夏コミのペーパー用に書き始めたもの。
今となってはとんだパラレルですが、
花井=英語得意が立証されたのでよしとします。
えーと、なんだろね。この話…