Holiday



日曜の朝、巧はいつもの時間に足音を殺してそっと階段を下りた。
いつもなら起き出す町の音が遠く聞こえてくるのに、今日はまだ、ひっそりと静まっている。
ただ鳥の声だけは曜日に関係なく賑やかだ。
巧はキッチンで水を一杯飲み、それから玄関に向かった。
すると背後からきし、きし、と階段が軽く軋む音がした。
「兄ちゃん、神社行くん?」
青波が寝起きらしい上気した頬で言った。
「ああ」
短く答える。青波の目が何か問いたげに兄の顔を見つめた。
「兄ちゃん、僕も……」
「一緒に来るか」
青波は兄の言葉にびっくりしたように目を見開いた。
「来たくないならいい」
巧がそう言うと、青波は小さな頭をぶんぶんと振った。
「行く! 行きたい!」
「じゃあ早くしろ」
「うん。待っててな。僕すぐに着替えてくんで」
とたとたと軽い足取りで青波は階段を駆け上っていく。
巧は上がり框に腰かけて、ランニングシューズの紐を結んだ。
また階段で足音がして、青波にしてはやけに早いと振り向くと、今度は母の真紀子が眠たげな目をして立っていた。
「ランニング、行くの?」
「ああ」
「青波、ここにいたでしょ。また寝たのかしら」
真紀子は階上を見上げた。
「今着替えてる」
「え」
「一緒に神社に行くって言ったんだ」
巧の言葉に、真紀子は意外そうな顔をした。
「珍しいこともあるのね」
真紀子はただそう言った。てっきり反対され非難されると思っていた巧は、少し驚いた。
「やあね、何よその顔。私が止めると思ったの? 最近はそう過保護にもしないことにしたのよ。どうせあの子を止めることはできないんだもの」
誰に似たのかしらねえ、と真紀子は呟いた。
それは、母にだろう。巧はそう思ったが口には出さなかった。
「温かいスープを用意しておくわ」
いいよ、と断ろうとする巧を遮って、真紀子は首を振った。
「青波はよろこぶわ。あの子の好きなソーセージとキャベツのスープ」
「過保護はやめるんじゃないのかよ」
「過保護じゃないわ。我が子のために朝食を用意するのは母親として当然のことよ」
「そう」
ならいいんじゃない、という言葉を巧は飲み込んだ。
会話がなくなった。青波を待つつもりなのか、真紀子は壁に肩を預けたまま動かなかった。
もう少し寝れば? そう言おうとした時、真紀子が言った。
「あの子、喜んだでしょ」
「青波?」
喜んだ? ――そうかもしれない。
そして、そうなることを知っていた、と巧は思う。
知っていて、それでも見ないふりを、気付かないふりを長い間していたような気がする。
厭うていた。自分のペースを崩されることも、自分の世界に弟が入り込んでくるのも。
だから――
「そうよ、あの子、あんたのこと大好きなのよ。私なんかより、よっぽど」
それは違う。巧は思った。だけど、何がどう違うのかよくわからなかった。だから黙っていた。
軽やかな足音。白いソックスの小さな足が現れ、そしてそれは弟の姿になった。
「兄ちゃん、あれ、ママも?」
「青波、タオルは持った? 汗をかいたらすぐ拭くのよ」
「わかっとる。ほら」
青波は上着のポケットからタオル地のハンカチを取り出した。
「行くぞ」
巧は腰を上げた。うん、と頷いて青波が玄関に下りた。とんとんと飛び跳ねるようにして靴を履く。真紀子は何も言わずにそれを見ていた。
「いってきます」
「気をつけて」
巧は何も言わずに家を出た。いつもより日が高い。眩しさに、一瞬目を眇めた。
「兄ちゃん」
「何だ」
「ぼくに構わずいつもの速さで走ってな。ぼく、自分のペースで神社まで行く」
青波は茶色の目で、まっすぐ兄を見上げていた。朝の光の中で、いつもより瞳の色が薄く見えた。
「わかった。けど無理だと思ったらすぐ帰れよ」
「うん」
「……じゃ、行くぞ」
「あ、兄ちゃん!」
巧は走り出した足を止め、振り返った。青波ははにかんだように笑った。
「ありがとう。ぼくな、ずっと兄ちゃんと走りたいって思ってたんで」
「青波、おまえ……」
言いかけて、巧はポケットの中からボールを取り出した。それを、青波に向かって放り投げた。
青波は驚いたようだったが、両手でそれを受け止めた。そして、不思議そうな顔で兄の顔を見た。
「それ、持って来いよ。……神社で、待ってるから」
それだけ言うと巧は青波に背を向けて走り出した。背後で、青波も走り出したのがわかった。振り向きはしない。ただ、微かなその足音を聞きながら、巧は走った。
青波の足音は少しずつ小さくなって、やがて聞こえなくなった。それでも巧は振り返りはしなかった。
巧の足に青波がついてこられないのは当然だ。だけどおまえは諦めないんだろう? おれを、追いかけてくるんだろう? 巧は青波の目を思い出しながら走った。
日曜の朝、町はやっと目を覚まし始めている。
巧はうっすらと浮いた額の汗を、ぐいと拭った。




















巧さん!そんな気軽に青波に後ろを見せてはいけませんよ!!
逃げてー!!!(笑)
真紀子のセリフ回しはものすごくあさの節というか、
なんていうのかな、普通すぎて独特というか。
至極普通の人なんですよね、真紀子は。
だから真紀子の言ってることはすごくよくわかる。
息子があんなふうだったらやっぱり親として心配だもの。