バタフライ・キス |
| 春。 中学最後の一年が始まる。 「――では、各自何事にも最上学年、また進学する者は受験生としての自覚を持って行動するように。ホームルームは以上。日直!」 「きりーつ……」 がたがたと椅子を鳴らして立ち上がる級友達に倣って、水垣俊二も重い腰を上げた。 (あほくさ…) 決まりきった担任の話にも、惰性的な号令にも、何ら意味を読み取ることができない。いつもどおり、退屈な春だ。 (眠い…春眠不覚暁、やな) 大きな欠伸をひとつ。そこへ、門脇修吾が笑いながらのっそりと入ってきた。 「でかい口だな」 「いきなり失礼なやっちゃな。体の全パーツが規格外の奴に言われたかないっつうの。――なんだよ?」 門脇はにやりとした。 「また伸びたぞ。明日の身体測定が楽しみじゃ」 「まッ、アタシの裸が目当て? いやらしい」 瑞垣は裏声で言って、胸の前で両手を交差させた。 「ア、アホか! 俊の裸なんか誰が見るか!」 「興味あるクセにィ〜」 しなを作る瑞垣の頭を、門脇は叩いた。 「バカ言ってないで帰るぞ。おまえんとこの担任話長すぎ、待ちくたびれた」 「待っとろなんて言うてないやろ」 瑞垣はそう言って鞄に手を掛けた。始業式の今日、部活は休みだった。 「こないだまで雪が残ってたような気ぃするけど、もうすっかり春やな」 土手を歩きながら門脇が言った。なだらかな斜面は柔らかな緑に覆われ、ぽつぽつと鮮やかな春の花が咲いている。 「そらおまえが野球ばっかやってて周りを見てねえからやろ」 瑞垣はそっぽを向いたまま毒づいた。 「そもそも季節ってのはゆうっくり移り変わるもんや。昨日まで冬、今日から春ってわけにはいかん」 「まあなあ」 暦のようにはいかんよなあ、と門脇は笑った。 「お、俊、見てみ」 「なんだよ」 「モンシロチョウ」 指差した先に、白い蝶がひらひらと飛んでいた。門脇は足を止めてそれを目で追った。飛んでは花に停まり、またひらりと舞っては、別の花へ。まるでキスを振りまくプレイボーイだ。 瑞垣は興味なさそうに欠伸をした。 「だから?」 「その春最初に見た蝶が白い蝶だと、ラッキーらしいぞ」 「なんだそれ。秀吾ちゃん、いつからそんなロマンチストになったのよ」 瑞垣は吹き出した。似合わないことこの上ない。 「ロマンチストで悪いか」 「悪い。そんな大男が花だの蝶だの、気色悪うて犯罪や。そのうち花言葉とか言い出すんやないの? やめてよね」 「ひどい言われようやな。けど花言葉はさすがにないな。蝶だけや」 そう言って門脇はひどく優しい目をして瑞垣を見た。時折幼馴染が見せるその表情が、瑞垣はとても嫌だった。 「にやにやして人を見るな。キショイわ」 瑞垣は斬り捨てるように言って、先に立って歩き出した。 「おい、待てよ俊。今日、おまえんち寄っていいか」 「だめ」 「なんで」 「腹が痛いから」 「えっ大丈夫か?」 「だめ、大丈夫やない。二日目やからな。ツライわあ」 門脇は一瞬変な顔をしてから、眉間に皺を寄せた。 「本気で心配しただろ、ばか」 「ばかとはなんや。そっちこそ人の都合考えろやアホ。毎日毎日用もないのに人んち入り浸りやがって」 「迷惑か?」 門脇が大きな肩を落とす。叱られた犬のような顔をする。 瑞垣はそれを横目で見て鼻を鳴らした。 「迷惑も迷惑、大迷惑や。うちのおかんに秀吾ちゃんと比べられてネチネチ言われてみい。かなわんわ」 「そりゃ悪かった」 くくっと門脇が笑った。 「でも今日はちゃんと用があるんや。なあ、寄ったらいかんか?」 「ああほんとしつっこいやっちゃなあ。わかった。けど夕飯前には帰れよ」 瑞垣は諦めてひらひらと手を振った。 「あー疲れたー」 瑞垣は鞄を放り出して、制服のままベッドに倒れこんだ。 「皺んなるぞ」 門脇が上着の襟を緩めながら苦笑した。瑞垣は顔を突っ伏したままくぐもった声を出した。 「秀吾、下行ってなんか持ってこい。腹減った」 「そうやっておまえがおれを使っとるからおばちゃんに言われんじゃろ」 「うっさい、さっさと行け」 門脇を追い出して、瑞垣はむくりと起き上がった。戻ってくる前にさっさと着替える。 ジーンズにトレーナー。その格好で再びベッドに寝転んだ。 「おっ服が変わっとる」 ジュースのコップとスナック菓子を載せた盆を手に、門脇が戻ってきた。 「おれジャニーズやからな、早着替えは得意なんや」 「は?」 「こう、服引っ張ってな……まあええ。なんや、あのばばあ、育ち盛りの若人になんちゅージャンクなメニューや」 瑞垣はぶつぶつ言いながらコップを手にした。一口飲む。ごくっと音がする。 そして瑞垣は、さっきから自分をじっと見ている視線に気付いた。 「何や」 「俊」 門脇は胡坐をかいたまま、瑞垣の目をみつめた。 「キスしたい」 突然の言葉に瑞垣は思わず絶句した。コップを落としそうになったのは、何とか持ちこたえた。 門脇の目はまだ自分を見据えたままで、冗談を言っているようには見えなかった。 (だからタチが悪いんや、こいつは) 「何やいきなり……ロマンチストの秀吾ちゃんらしからぬえらい即物的なセリフやないか」 茶化すように瑞垣は言った。門脇から発せられるシリアスな緊張感をとりあえず払拭してしまいたかった。 「いろいろ考えたけどな」 門脇は低い声で言った。 「結局うまい言葉が見つからんかったんじゃ。悪いとは思っとるけど、でもおれはおまえが好きで、キスしたいと本気で思っとる」 照れ笑いさえ見せずに門脇は言った。 「だめか?」 (……だめに決まってるやろ!) 瑞垣は頭を抱えたくなった。ここまでアホだとは思わなかった。毎日家に来て用もなくごろごろして帰っていくと思ったら、そんなことを考えていたのか。 (春は変質者が増えるって言うけどなあ) そういえば野良猫も毎晩盛って鳴く。 (動物並みか、こいつは……) 「秀吾、おまえなあ」 だが、ただ拒否するだけでは収まるまい。 さっきもそうだったが、言い出したら聞かない頑固なところがある。 瑞垣は軽い溜息をついて、頷いた。 「わかった」 「えっ、まじで?」 「何や、冗談だったんかい」 「いや、まさか……おまえがそう言うとは……」 「目、つぶれ」 瑞垣はそう言って立ち上がった。 「え、今すぐにか? ちょっと待ってくれ、心の準備が……」 「うるさい。知るか」 瑞垣は門脇の顔を両手で挟むようにして上向かせた。 「お、おい、俊。本当に、いいのか……」 「黙れって言ったやろ。黙らんと、せんぞ。チャンスは一回や」 そう言うと、門脇の目が静かに閉じた。長くはないが濃い睫毛が、小さく震えていた。緊張しているのだろう。 (あほやなあ、こいつ……) こんな自分を好きだって? キスしたいだって? そんなもん、女の子といくらでもすればいい。 (それでも、おれがいい言うんか) 瑞垣は門脇の顔に、自分の顔を寄せた。 ぱち、ぱち…… 二回瞬き。 仰向いた門脇の額に自分の睫毛が触れるように。 ただそれだけの。 「――はい、おしまい」 瑞垣は手を離した。 「えっ!?」 門脇が驚いて目を開ける。何が起きたのかわからないという顔をしている。瑞垣は笑い出しそうなのを必死で堪えた。 「な、なんだ今の……」 「キスや」 「え?」 「『バタフライ・キス』言うんや」 ぴったりやろ、と瑞垣はくちびるだけで笑った。 門脇は呆気に取られたような、がっかりしたような、それでいてどこか安堵したような複雑な表情をしていた。 「秀吾ちゃんにはまだ本物のキスは早すぎるんよ」 作り声でそう言って、瑞垣はジュースを飲み干した。 「それは、またいつかチャンスがあるってことか?」 懲りない男、門脇秀吾はそう言ってごくりとのどを鳴らした。 (あーあ、ほんまに救いようのない奴やなあ) 「さあねえ」 瑞垣はせいぜいにっこりと笑ってやった。 「蝶々は気まぐれなのよ、秀吾クン」 門脇はあてられたようにぴんと背筋を伸ばした。 とりあえず、門脇の春はまだ来ないようだ。 (来させてたまるかい) |
瑞垣を書くのは楽しい。ということに最近気付きました。 性格がどうこうと言うのではないのですが(笑) まあ、感情移入はしやすいかな。 私は基本的に言葉をいじくるのが好きなタチなので、 瑞垣のようなキャラのセリフ回しを考えるのは楽しい。 実際自分で書いてみて愛着のわくタイプのキャラだなあ、瑞垣は。 てか門脇よ…おまえ、それでいいのか…? |